無職の頃
思い返してみると無職の頃が多い。
「怠け者になれるなら御の字、オレは怠け者にすらなれない」とはドストエフスキー『地下室の手記』の主人公が羅列した言葉の一節である。
私にとって無職の頃は鬱屈と日々を過ごしてはいたが、それなりに考える時間もあり、退屈ではなかった。
私には野心がない。生きていく気力も人より乏しいかもしれない。金もいらない。特に、明日もいらない。現に社会人になってからの最低年収が0円の時もあったし、現在までに年収200万を越えたことが無い。これはちょっとした自負である。
埴谷雄高は独居房の中で日がな一日壁を見つめ続け、思索し続けた。シャバに出たいとも思わず、ひたすらその時を過ごせたらどんなによかっただろうと語っている。
所謂太く短い人生も私には当てはまらず。
細々生きるのが精一杯であるらしい。
コスモポリタニズムを手放しで賞賛するが、私は一個の小さな日本人であることからは抜けられないらしい。
生活やシステムが追いかけてくる。毎日が特に理由もなく非常に苦しい。
これが本音である。
果たして、私はドロップアウトもサクセスもこのままではできそうにないことだけは確かだ。
せいぜいがチンピラの風味である。
周りに居た本物のチンピラたち(それでもチンピラ止まりだよ)は最低限度の生活を保障されはしたが、そこから脱出(エクソダス)することはできないみたいだ。
亀の甲羅の罅割れ方で明日のことを占うというのはどういう気持ちなんだろうか。
無職の頃、誰かが電線に引っかけて絡まった凧が揺れるのを毎日見ていた。
どうしようもなくなってしまったその凧の気持ちがわかる気がした。
全部現時点。
救われたい(*^_^*)